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Yietoが目指すのは、家事という無償労働が家庭内で誰か一人に偏りすぎない未来。

小沼 光代

Yietoが目指しているのは、家事という無償労働が、家庭内で誰か一人に偏りすぎない未来です。
家事は家族全員が気持ちよく暮らすために必要なものですが、そのために誰かが犠牲になっているのでは意味がありません。
そのために、まずは家庭内での家事の総量を減らし、ミニマムになったところで分担する(家事家電やアウトソースも含めて)、そういう世界を目指しています。

ちょっと長くなりますが、なぜ私がこう考えるようになったのかをお伝えしていきたいと思います。

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専業主婦が2人家庭の家事のクオリティが自分の基準

母と祖母、2人の専業主婦(一時期働いたりはしていましたが)がいる家庭で育った私。
朝食は、魚や厚揚げを焼いたものをメインに、ごはんとお味噌汁が基本で、大体はこれにお漬物や前の晩の残りのおかずやフルーツなどが出されていました。
ちなみに、ぶどう(巨峰など)は、皮や種はきれいに取り除かれた状態でててきました(高校生くらいでも!)。
夕食は毎日決まって17時。豪華な中身ではないけれど品数は比較的多く、いわゆる「一汁三菜」が、温かいものは温かく、冷たいものはきっちり冷たい状態で出てきました。
ものが多かったため「片付いた家」ではなかったですが、掃除は比較的マメにされていた記憶があります。
大学進学のために家を出るまでの18年間、この状態が当たり前だったので、私の中での家事のクオリティというのは、この自分が育った家庭が基準になっています。

私の中の「母とはかくあるべき」が顔を出し始めたきっかけ

大学時代〜結婚してしばらくは、私の中にある「母とはかくあるべき」というものは全く表面には出てきませんでした。
料理は、自分がしたいと思えば食べたいものを作る。それ以外はコンビニか外食。不衛生なのは嫌だけどものが散らかっていることは当時は全く気にならなかったので、人が遊びに来る前に片付けるくらい。
このスタンスは結婚してからも変わらず、終電で帰宅して、夫を駅まで呼び出して近くの居酒屋で晩御飯、という毎日(幸い夫も、手作りの晩御飯にこだわる人ではない)。

しかし、妊娠〜出産をきっかけに、私の中に眠っていた「母とはかくあるべき」が顔を出し始めます。
「かくあるべき」の基準は、自分が育った家庭、つまり、専業主婦2人により維持されていた、朝食も複数品、夜は一汁三菜、家も常にまあまあきれいに保たれている家庭。
「手抜きをする」ことなんて思いつかないわけです。
今でこそ、「洗濯物はたたまなくても別に困らない」「おかずの品数と栄養は比例しない」「散らかっていても人は死なない」なんてことは当たり前ですが、当時の私の中では全く思いつかないことでした。
自由時間や睡眠も削り、体調も崩し、常にイライラして家族に八つ当たりをしながら家事をやる。夫に「そこまでやらなくていい」と言われても、母に「あなたは働いているんだから全部は無理よ」と言われても、やらないという選択ができませんでした。頭ではわかっているんだけど、心がそれを許さない、とでもいうのでしょうか。呪縛ですね、呪縛。
そして、実は、ちょっと、軽く病みました。家事のプレッシャーからか、仕事から家に帰るために電車になかなか乗れず何本か見送る状態に。

「家事の手抜きは悪ではない」。少しずつ手抜きができるように。

でも、そこから少しずつ、手抜きが出来るようになってきました。きっかけとして大きかったのは、世の中の「家事の手抜きは悪ではない」という風潮になってきたこと。
家事の手抜きは「負け」ではなくて、いわば「丁寧な家事チーム」から「チームゆる家事」への移籍のようなものであり、そこに優劣はないんだ、と。
だから私も、「(好きでやってるんじゃないんだったら)やめてもいいことがいっぱいあるよ」と、昔の私みたいに苦しんでいる主婦の人に伝えたいのです。
「旦那さんがこうじゃないと嫌だっていうの」という声は時々聞きます。でも、だったら旦那さんにも同じようにやってもらえばいいと思うんです。多分、続かないから。

手抜きはまず、嫌いな洗濯から

チームゆる家事への移籍後、最初にやったのは、私が一番嫌いな家事である「洗濯」での手抜き。
洗濯機を回すところまでは好きなんですが、そのあとの「干して畳んでしまう」が嫌いです。私があまりに洗濯物を干すのが嫌いだから、昔は夫がやってくれていたのですが、夫も選択を干すのが趣味というわけではなさそうだったので、乾燥機を導入し、思い切って「干す」をやめました。
洗濯かごに入ってるものはそのまま乾燥機にかけるのが基本。でもどうしても乾燥機にかけられたくないものがあれば申告してもらって、乾燥前に取り出して自分で干してくださいね、と。もちろん、「みんなで支え合っての暮らし」だから、余力があれば夫のぶんを干すこともありますし、もちろん、夫が私のものも干してくれることもあります。

そして、「たたむ」もやめました。
乾燥機からごそっと取り出して、私はリビングの床に乾いた洗濯物の山を作っておく。それを夫が持ち主別に分けて、各自のタンスの前にどさっとおく。あとは自分でしまってね、というシステム。わたしも自分のものだけ抜き出してあとは放置です。
もちろん先述の通り「支え合っての暮らし」だから、他の人の分でも気が向いたときはタンスにしまうようにしています(たたまないけど)。でも、本当に気が向いた時だけ。「しまわないといけない」「しまってやったんだ」ってイライラするくらいならやらないと決めています。
たまに夫が全部きれいに畳んでくれていることもあります。「たたまなくていいよ」と言ったら「好きにやらせて」というので、口を出すのはやめました。

ごはんを難しく考えるのをやめるきっかけになった土井善晴さんの言葉

次にやめたのが、献立を一生懸命考えることと、品数の多い食事。
「息子は好き嫌いはほとんどないけれど、量をたくさん食べてくれるのはやっぱりお肉。運動もしているしできればたくさん量を食べさせたい」「娘は結構な偏食で魚と野菜が嫌いだけど、なんとか工夫してできるだけ野菜や魚を食べさせたい」「日本酒で晩酌をする夫にはやっぱり和食」・・・この条件を満たして、かつ、その辺で買い物をすませられて、短い時間で作れるもので最近食べていないものはなんだろう?と考えるだけで疲れていました。
一生懸命考えて頑張って作った挙句、思ったよりもみんな食べてくれなかったらものすごくイライラするし悲しい。

そんなわたしの気分をスッと楽にしてくれたのが、土井善晴さんのこの言葉。

「家庭料理がいつもごちそうである必要はないし、いつもおいしくある必要もない。」

「作り手が気を張って手間暇かけた料理を出すよりも、「今日はこれしかないからごめんね~」と笑って出してくれる料理のほうが家族はみんな幸せになれる。」

ハフィントンポスト『家庭料理はごちそうでなくていい。ご飯とみそ汁で十分。土井善晴さんが「一汁一菜」を勧める理由』

本当にこの言葉で楽になって、具沢山の汁物をメインに、気が向いたら肉や魚を焼いてあとはごはんで十分、と思えるようになりました。
たまに子供達が嫌いなメニューを出してしまって文句を言われたら、「でも今日それしかないの、ごめんねー。どうしても嫌だったらふりかけご飯でも食べておいて」って。本当にふりかけご飯と味噌汁しか食べない日もあるし、文句を言いつつしぶしぶ手をつけることも。足りなかったようでそのあとでお菓子を食べている日もありますが、別にいいかなと思うことにしました。

お皿は夫が洗ってくれることも多いのですが、夫も忙しくて洗えない日もあります。シンクに洗っていないお皿が溜まっていると、以前は「次の食事で食器が使えないじゃないの」とイライラしながら食洗機に入れていましたが、家にお皿はたくさんあるし、紙皿だっていいのです。「日常のご飯を紙皿に盛り付けるなんて!」という方もいるかもしれないけど、でも、自分のイライラと比較したら大した問題ではありません。

まだまだ私もゆる家事初心者。油断するとつい、まだ自分の中にある「ものすごくハイレベルな基準」に引き戻されそうになります。
でもそこはなんとか我慢。育った環境が家庭のあり方に多大な影響を与えることを身をもって知ったので、私自身、一男一女の母として、娘が将来呪縛に苦しむことがないように、また、息子がパートナーに完璧を求めて苦しませることがないように、自分がストレスを溜めたり、家族に恩を着せてまでやる家事はやめるべきだ、と。

私たちの世代では、もしかしたら変わらないかもしれない。でも、自分たちの子供世代では、家庭内で誰か一人だけが家事で苦しむことがないような世界になっていてほしい。
……そんな思いを込めて、Yietoを作っています。