子供に文化資本を身に着けさせるにはどうしたらいいか?という教育のお話。
古代のローマでは、子供の教育にあたりギリシア人の家庭教師をつけて、勉学以外にも、文化資本「語弊力、言葉遣い、学力や教養、美的センスといった直接的にお金にならないかもしれないが、人生を左右することにもなるもの」を身に着けさせたという事例があるそうです。
で、現代でギリシア人の家庭教師をつけるのは無理だから、どうしたらいいか?と。
記事中の筆者は、子供とよりコミュニケーションをとることを意識しました。
それにより自分という父親がギリシア人の書いて教師になろうと。
しかし、親は親としての立場を逃れえないことに気づきます。
「誰が言ったかでは、何を言ったかが大事」とは言われるものの、受けてとして、誰が言ったかは評価に関わってくるでしょう。
特に子供の場合、(すでに社会の一部と化してしまっている)親が言ったのか?自分と似た高さに目線をおくものが言ったのか?で、その言葉の受け取り方は変わってくる。
結論としては、親はギリシア人の家庭教師にはなれない。兄貴や姉貴(血のつながってる兄弟に限定しない)的存在が必要とまとめています。
そういった存在を親が用意することも(現代では)簡単ではないと。